追悼 1 「鈴韻集」から                                       
五十年前の事など 細江 省吾
 私は小学校時代の君が日常の片鱗を述べて博士を偲ぶ事にしたいと思います。
 厳父君の交茂先生は金沢の数学家関口開氏の高弟であったが、早くから三重県に招聘されて尋常中学校で教鞭を振るっておられました。関口氏の点竄<テンザン=日本独特の筆算式の高等代数。関孝和が中国の天元術に改良を加えて創始した=明治初期には西洋渡来の代数も言う>問題集は当時有名な書で、その解式は交茂先生の手になったものである。ある日その話をしたところ、手許に持っていないとの事であったので、私はこれを探し求めて贈呈する約束をしたのですが、未だその約を果さないうちに永眠された事はまことに心残りでありました。その様な関係で博士は津の養生小学校で学び明治25年の卒業で、私も同期であります。養生小学校では非常に進歩した教課を採り入れており、生徒の中には自称詩人や科学者も可成出ました。明治23,4年頃、同人7,8名で雑誌を作り文学に科学にそれぞれ抱負を述べ合って居ました。こんにゃく版<半紙半分を縦にした大きさ>刷りで、中新町の博士の僑居<仮の住まい>で刷ったのです。焚加減も原紙に紫インクで認めるコツも勿論最初君が指導したのであった。その雑誌に私は漢詩や記事文などを載せたが君はいつも科学に関する意見や議論などを掲げて同人の蒙を啓く<モウヲヒラク=道理に暗いのを教え導く>事が常であり、その緻密な頭脳にはいつも驚かされたものでありました。又君は鉄筆に巧みであり、当時山谷樵夫(君の雅号)刀として、私の為に彫って与えられた洞天(私の漢詩の時の雅号)嵐翠(俳句の時の雅号)の一顆の蝋石<ロウセキ>は故人の幼時を偲ぶ唯一の資<タカラ>として手許に保存しております。
 思いで    後輩・ 大友 幸助
      明治36年の理科大学化学科には櫻井錠二、垪和為昌池田菊苗先生が教授で助教授に真島利行先生、鈴木庸生さんは講師であった。身近な原料を使って実験をし、実用化する能力に長じていた。私が学生2年時、昼食に誘われ、その後連れて行かれたところが陸軍幹部技手の研修所で鈴木さんは満州へ赴任されるので後任者として私を紹介され、事前に何も知らされていなかったので、新任の挨拶をする羽目になり度肝を抜かれた。研究は準備周到、細心を際める一面、奔放な所があり、私は他にも開成中学校の物理・化学の教師と田中理化学機器店の顧問を引き受けることになり、卒業後も十年近く勤めることとなった。
      鈴木博士を偲ぶ       真島 利行
        君は化学を愛好して一生を貫き、遂に天才と思われるまでに大成された。君は中学時代から化学を志し、ミラーの原書で勉強し、実験もしていたほどであったからその優秀な頭脳と化学上の知識は常に同僚より秀いでていた。之は第一の幸福であった。君は酒を愛したが終生酒杯を捨てずに、尚且つ晩年まで健康を害するほどに至らなかった。酔えば即ち陶然として自ら楽しみ、また上機嫌によって家人をも喜ばせられた。このようなことは、第二の幸福であった。君は趣味が広く化学以外の諸科学にも造詣が深い。文芸・和歌・の道にも通じていたことは、第三の幸福であった。君は立派な子宝に恵まれ、賢夫人内助の下に家庭の善き父として終始おられた。これは、第四のしかも人生最大の幸福ではないだろうか。最後に君が徳川末期に生まれ合わせていたならば、時流に先んじた学者として、或いは平賀源内又は佐藤信淵のような不遇な生涯を送らねばならなっかたかも知れない。幸に明治・大正・昭和と開花開花の時代に際会できたことは、満鉄辞職後も理研に迎えられて、最も自由な研究生活を送られたことは第五のしかも学者として最大の幸福で合った。しかし若し、君が何十年か後、我国の科学的水準が大いに向上した時に生を享けられたならば、遥かに大成して画期的、不滅な大業績を化学界に樹立されたかも知れない。
明治30年代の鈴木庸生君 松原 行一
     明治33年9月に東京帝国大学理科大学化学科へ入学された時、私は助教授として同科の教職であった。鈴木君が卒業した第四高等学校では今井省三という老教授が生徒数もすくなっかたのでまるで個人教授のような訓練が行われていた。明敏な君は優秀な成績で卒業。大学へ入学後も特待生となり、卒業式では後の理化学研究所総裁伏見宮殿下御臨席、恩賜の銀時計を拝受する光栄に浴した。ついで、「硫黄並窒素化合物の化学」を研究事項として大学院へ進み、翌年理科大学講師を嘱託された。私は英・独両国へ留学を命じられ、明治36年1月に出発したので君の卒業当時の事は直接見る事は出来なかった。英国滞在中の明治37年、日露戦争の時代となり、英国公使館の林薫公使から、英国ユニバシティ・カレッジのラムゼイ教授から依頼の「光るものか、何か臭いもので、敵の目を眩ます方法はないか」との問い合わせを東京の大学の櫻井教授へ通信して欲しい旨の伝言であった。ところが明治32年ハーグで開かれた第一回万国平和会議で、我国の第一全権委員であった林公使の所へ持込まれた事であるから「窒息させるガス」や「有毒ガス」などではなく催涙剤、促テイ<くしゃみ>剤、発光剤などの種類のものであろう。なぜなら明治33年勅令公布の「窒息させるガス又は有毒質のガスを散布することを唯一の目的とする投射物の使用を各自に禁止する」宣言に抵触するからである。当時、軍部当局からも化学的方面の研究を試みるようになり、鈴木君は陸軍技術審査部で兵器審査の事務を嘱託され、日露講和条約締結後、解嘱となった。
故鈴木庸生君の思いで  片 山 正夫
     鈴木君を知ったのは明治33年東京帝国大学理科大学の化学科に入ってこられた当時、自分は、大学を卒業したばかりで、翌年一時大学の助手勤務をしていたので、その卓抜な才能に感服した。爾来40年に亘り公私の交際があった。鈴木君は一見無造作に見えるが注意周到、微細な現象も見逃さ無かった。卒業の頃はコバルチナイトライトとして知られた複雑な物質を研究していた。この頃ウエルナーの配位法はまだ充分に確立していなかったので、この方向からの観察は完全でなっかたが、鈴木君の実験的結果には幾多の興味ある事実が含まれていた。
大学卒業後一時、東京開成中学校で講義をされたが、之は確か私が仲介して頼んだのではなかったか。当時の生徒の同級会には近年も喜んで出席され「先生の講義は早口で困ったが今も矢張り早口ですな」と昔の生徒の一人が語っていた。
当時、理科の卒業生は官立学校の口があれば喜んで赴任したのであったが、鈴木君の奔放自在の性格は氏の言では「先生といわれる程の馬鹿」な生活に躊躇<=跼天蹐地=キョクテンセキチ=身の置き所がない思い・肩身が狭くて、世を恐れ憚って暮らすこと>に満足せずに支那(中国)に赴き満鉄に入った。
明治38年日露戦争が終り、自分は海外研究の命を受けスエーデンに滞在、同40年にベルリンへ移った。この時鈴木君は満鉄から海外出張でベルリンに来られ、大いに旧交を温めることが出来た。二人とも左の利く方なので難しい学問上の議論より飲んで歩く交際が多かった。その頃ベルリンでノイローゼに罹った同窓で秀才の世話を鈴木君の親切な協力がなかったら自分一人では出来ない事であった。
大正12年、理化学研究所に於いて主任研究員の欠員が生じ故池田菊苗先生から相談を受けた。これは鈴木庸生君に勝る適任者は無いと意見一致し、所長(大河内正敏)に意見を開陳して、理研に迎えることになった。理研の業績はそれぞれの研究者の記述に任せるが、専門は無機化学でありながら実際は何の垣根もなく、何事にも着想の非凡なところは周りが舌を巻き驚くのであった。冶金法の改良を計画しているかと思うと写真の感光剤に着手し、更に飛躍的に太陽熱の利用を図る等、発想の転換に目まぐるしいものがあった。文献を繰り広げて考察するような月並みなものではなく、肩を振りつつ及び腰になってビーカーを攪拌しながら次々に思い付くのである。
君の抜群な記憶力と広汎な学問的探究心は君の頭脳の容量が多かったからであろう。
隣人としての鈴木博士 上田 恭輔   昭和17年9月7日
 「人称其能我称其徳」 鈴木君は確かに多能多芸の人であり、自分の専門外のことでも人一倍の知識の持主であった。私は単に良き隣人、良き友人、良き同僚として満州時代の、若き鈴木君を偲んで見たい。
  明治40年頃、当時麻布の狸穴にあった南満州鉄道株式会社が正式に陸軍野戦鉄道提理部を継承して同年4月1日を期して現地満州で業務を開始する事になったので私は時の副総裁故中村是公さんと一緒に海路大連に赴任した。その頃の大連は未だ道路らしき街路もなく、若干のバラック建ての日本人町が中央部に存在するだけで今日75万人の人口で洋風の文化都市大連も以前は雑草茫々の一大広原であって、折角立派に出来上がったロシア町もロシア人の常套手段の焦土戦術によって焼き払われ、目立つ建物は四壁を残すものばかり、たまたま火災を免れた住宅はことごとく支那人の略奪を蒙り見る影もない程荒らされていたが、これらの焼け残り家屋も大抵は応急修理で更正して、野戦鉄道や関東都督府や陸海軍関係者の官舎になっていたから、新入者の満鉄人は続々赴任してきても雨露を凌げる住宅に乏しかった。
 幸にも私は先発の満鉄幹部が準備しておいてくれた大連ロシア町の一遇、俗に浜町と言われた、元ロシア海軍幹部の官舎跡地の閑静な赤レンガ二階建ての住み心地の良い社宅に落ち着いた。単身赴任されていた後藤男爵がある時近く鈴木ヨウセイという学者が来る事になったが、非常な学者で中々偉い人物だが若い細君を同道して来るから君の社宅が良いかも知れないと話された。試しにその学者は何が専門でどんな仕事をさせるつもりですかと尋ねると、後藤総裁は「何でも出来る男だ。」とすこぶるマジメに答えられた事もある。その中奥様と一緒に洋行していた鈴木君が着任して結局私の隣人として満鉄時代がはじまり、我家と鈴木家とはここで10年以上隣人として交際往来したのである。鈴木博士の沢山のお子さんの大部分はこの浜町の社宅で成育されたのである。
 相対的に学者と言われる人物は、昔から「学者風」と呼ばれるように何処か世人と違う所がある。ツゥーンとすまして「お前にはわかるまいが」という様な顔つきで人に接する人が多く、中には世の中の事柄には全く迂遠で、ただ究学のみに没頭している真正の学徒もあれば、世評の高い学者でその実、高貴人や要路の有力者にペコペコする存外の俗物もある。しかし、長い年月の間に私の見たところ鈴木博士はそのカテゴリーのどちらにも当たらない高潔で常識に富み一つも嫌味のない社会人であった。
 私が常に敬服し、且つ関心していた点は鈴木君は生来「徳」の人であった。しかし故人の携わった仕事は沢山あったがどれも新機軸を要する事業であって、その事業を完成しようとつねに指示器博士は未知の同僚の中に飛び込み初対面の多くの部下を率いて仕事を始めなければならなっかた。それにも拘わらず我等はただの一度でも鈴木君と意見上衝突した人、或いは反対した部員のあったことを耳にしなかったのである。
 幾ら学問が出来ても、非凡の才能があっても自分独りでは何事も成就するものではない。鈴木博士はいつも、どこでも円満な環境の内にあって絶えず研究を続け、自己の発明をモノにする事が出来たのはつまる所、故人の人徳の然からしむる所の外に何者もないことを痛感するのである。

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